サヌキ的な『ここまで来い』に関する考察

昨日、両親を訪問して母の話を聞いて思ったことである。

サヌキ的に『ここまで来い』を実践しているのと、そうしていると理由をつけて放置するのとどこが違うのか?
ということである。
これは考えるまでもないことなので、細かいことは割愛する。
要は、様子見か放置かの違いではないかと思う。
そのあたりについて、考えたことについて、私の母に対する姿勢をモデルとして、以下考察する。

もともと両親と私の感情がこじれたときに、兄が『あんな奴は死んだものと思ってほっておけ』といったことに同調した時から私のほうも放置していたのである。私のほうも家族は死んだものとして考えていたのである。
放置

一昨年、北陸某所に半年間単身赴任した時に私の携帯に何回か母から無言電話がかかってきたことがあり、ロッドによるとご先祖と上位存在の計らいであり、電話をかけてやるのが良い。と出たので連絡を取ってみた。
父の病気のことを知り、時々電話で様子を聞き、母が愚痴りだしたら3分を限度に聞いて物事の考え方についてたしなめることにした。
低次の『ここまで来い』

父の入院を知り、見舞いに行って母と話した時に、父に対する愚痴が減り、感謝の言葉がちらほら見えだしたので、じっくり話を聞いてみた。3時間ほど聞き続けたが、とても疲れた。その後も、時々電話で話を聞き、必要に応じて意見を言う。
『ここまで来い』の次元が少し上がったと思われる。

そして今に至るわけである。

二人の人がいると、そのに何らかの『苦労』が生じるのであるが、円満な関係を保つには意識レベルが高いほうが『苦労してやる』のが近道の一つである。そして、より高い意識を目指すのであれば『苦労を背負う能力』を磨くことが求められるのだろう。

などという事を昨夜、ニワトリと眠りつつ考えた。というよりも誰かに夢の中で説いて聞かされたような気がするのである。
説いて聞かせてくれた人がいるなら、その人に言いたい。

感謝!
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