頭脳労働
多数というものより気にさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先導者のほかには、大勢に順応するならず者と、同化される弱者と、自分の欲することすらわからずに従ってくる民衆とであるからだ。
この数年、職場で感じていた違和感がある。
特に、会議やその他の仕事上の議論の場で強く感じていたが、それが何なのかつかめずにいたのである。
昨日(も?)、定例の会議で激しめの議論があった。発端は私の発言(毎度のこと)。
『そう言うことは想定して、手を打つか、対策を考えてなかったんですか?』
相手は十分考えていたと主張する。そして私はそれでは考えたことになり得るのかと問い返す。
相手は同じ主張を繰り返す。ごく一部の人は意見を言う(賛否両論)。上司は『M2さんの言うこともわかりますが、出来ることとできないことがあるので』などと当たり障りにないことを言って収拾を図る。
相手と私の『考える』ということを簡単にまとめてみると、以下のようになる。
①相手:実験Aをやってみてうまくいけば、実験Bで検証する。検証結果が良ければCについて検討し…
→うまく言ったら次はどうするかのみを考える。
②M2:実験Aをやるにあたって、目的に合致した実験方法と装置を考える。実験Aの結果をどう評価・解析
するのかを考えた後に実験に移る。うまくいった場合は実験Bを、うまくいかなかった場合は今の段階で
はD、Eあたりが原因になりそうなのでその場合に打つべき手を考える。他に原因もあり得るのでその解
析法を考える。
私が特別なのではない。私が若い頃に教え込まれたことである。
当時は私の周りには②以上のことを普通に考えながら次々に仕事をこなし、私を指導してくれるような人は何人もいた。
今は①が普通である。
私を指導してくれた人たちが言ったのは、頭脳労働はお金がかからず、時間を捻出すればいくらでもできる。そして、それは概ね価値のある結果をもたらしてくれるのだということであった。
しかしここで言いたのは最近は思考の浅い人が多いという嘆きではない。
議論の場において発言するのはいつの決まった少数でしかない。
大多数は自分の主義主張を持たず、流されるままに生き、権威のある者の考えを自分の考えとするのに疑問すら持たないということである。
多くの人は『考えること』という自分の中の宝の山を自ら放棄しているのである。あるいは放棄していなくとも自分の保身の身のために浪費しているように見えるのである。
出来ることなら、ぶん殴って目を覚ましてやりたいと思うのである。
仮にぶん殴ったら、大半は気絶する恐れがあるので、まず手加減と言うものを覚える必要があるが。