好きなことをするということ

ぐれんの記事『好きなこと、好きなモノ』を読んで、昔の友人を思い出した。

やりたいと言うことがたくさんあり、色々と手を出すもののすぐに飽きてやめてしまう。
飽きっぽいのかと、当時は思っていたのであるが、いま改めて考察したところ、『やりたいこと』と『やってみたいこと』とが整理されておらず、単に体験してみたいという好奇心を本格的にやりたいという願望と取り違えているということに思い当たったのである。
別にその友人と、今は付き合いが無いのでどうでもいいことではあるが。

もし、奴と再会することがあるとしたら、卒業研究の追い込みで居残り実験をしていた時に何度か立て替えたチキンラーメン代、パン代、その他、合計3000円ほどを返してもらいたいと思うのである(せこい)。
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飲まなければやってられない

水ですが、何か?

歯を磨くとなぜかやたらとのどが渇いたような気になる。
口をゆすぐときに喉から先の部分的には『飲むと見せかけてフェイント』と感じるからなのかもしれない。

だから、出かける前についつい一杯ひっかける。
水ですか、何か?

作ってみた

とりあえず手に入るもので味噌汁に挑戦してみた。
『白だし』が手に入らなかったので、とりあえず粉末だしを使ったのであるが、思ったよりも簡単にできてしまった。

不足しがちな野菜も摂りやすいのでとても有り難い。

アドバイスや情報をくださった皆様。
感謝!

残念無念

今日は自分で『7777』を踏むというオチを目指していたのですが・・・。
残念無念なのである。

コメントまで用意していたのであるが、これは封印ということで。

梅干し

北陸某所での一人暮らしもようやく軌道に乗り、食生活の改善を図っている。
基本自炊で、たいしたものを作れないのであるが。
ご飯は炊いているが、みそ汁はコンスタントにインスタントである。

梅干しが好きで、いろいろ買ってみたのであるが、手ごろな値段のものは無駄な味が付いていて残念なのである。
ふと『お話会』で買った梅干を思い出して注文した。

昨日届いたので、早速食卓へ。
求めていた味である。

美味しかったので、早速おにぎりに入れて自転車徘徊のお供にしようと思ったのであるが、あいにく天気が悪かった。

来週、天気が良ければ出かけたいと思う。

連休も今日まで

今日の午後に、北陸某所に帰還する。

昨日は一日中ニワトリを甘やかした。

やはり息子や家内と一緒にいるのが一番なのである。

私は、意識の向上を目指している。

一方で、今は限界を感じている。

新地球やアセンションと仏陀の言う『解脱』とを重ね合わせてみる。

『この世のすべては幻と見極めてすべてを擲つ』ことは、今の私には到底できない。

新地球やアセンションと『解脱』が同義ならきっと私には、今の私には無理だろうと思う。

それでも、顔をあげて進む。それが自分の一部だから仕方がない。

限界は見えてはいるが、まだまだそこまでは遠いのである。

限界に達した時、その時には自分の世界も境地も変わっているだろう。

その時に、いろんな人や物との別れがあるかもしれない。いまの幸福との決別があるかもしれない。

それでも自分が新しているものを目指すのだから、今よりも悪いものではないと信じるほかないのである。


などと言ってみたものの、月に2回ほど自宅に帰ってくるのであるが、北陸某所に戻るときに『プチ決別』を経験するのである。
たぶん、いつになってもこの寂しさに慣れることはないだろう。

反省しない私(追記有り)

哲学者ニーチェのことばで、『一日の終わりに反省するな』というものがある。

一日が終わり、疲れ果てた時に考えることといえばマイナス思考になりがちである。
後世に反省して明日に生かそうと思っていても、思考は愚痴や泣き言につながってしまう。
そんなことをするなら、よく食べてよく眠り、疲れを取り除くほうがよほど効果的である。


職場の先輩や親などから、『一日の終わりにその一日を振り返って見なさい』的なことをアドバイスされた経験をお持ちの方は少なくないだろうと思うが、私は『ニーチェに一票!』である。

そして、ふとどこか無意識のかなたからツッコミが聞こえるような気もする。

元気な時は、たまには反省したほうが良いぞ

そんな気もする。

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言葉と思考

確か、ニーチェあたりの言葉だったと思う。
うろ覚えなので、言葉を補いつつ書いてみた(たぶん大支持の意味は間違っていないと思う)。

頭の中で思考を具体化するのは言葉である。
その人の言葉(語彙や表現力と解釈した)が貧しければそれに応じてその思考も貧弱なものになる。
言葉が豊かであれば思考も豊かになる。
質の高い思考をするために、本を読んで多くの言葉を身に着けることは有効である。


これは、自分の頭の中の思考にとどまることではないと思う。
外から取り込んだ思考を頭の中で解釈することにも言えることだと考えることができる。
誰かが考えたことを言葉として聞いたとき、それを咀嚼して自分のものとするには相応の言葉が必要であり、それが無ければ鵜呑みするしかない。
栄養価の高い食べ物を、ろくに噛まずに飲み下して十分に消化吸収できないようなものである。
もったいない限りである。

ニーチェは本を読むことを勧めたが、現代においてはその通りだろうか?
言葉というものは進化を続けている。本から得る以外の言葉も学んでいく必要がある。
私にとって、決定的に不足しているのは人とのコミュニケーションの中で生まれる言葉である(それを強化せざるを得ない状況が次々と現れている今日この頃である)。

ぐれん、Orion's Gateなどを読み、『もっと考えよう』と思ったら『考える量』を増やす方に目が行きがちであろうと思うのであるが、別な切り口で『考える』ということを考えてみるのも何かのヒントになるかもしれない。

などと言ってみた。

そして

さっきの記事の続きである。

誰かの行動を見て、『あーあ』と思い、突き放したとする。

それが、『ここまで来い』なのか、単に相手が嫌いで突き放しただけのことを『ここまで来い』だと思っているか。
どこまで自分で正確に識別できているのだろうか?

しっかりとじぶんを客観視したいと思うのである。

サヌキ的な『ここまで来い』に関する考察

昨日、両親を訪問して母の話を聞いて思ったことである。

サヌキ的に『ここまで来い』を実践しているのと、そうしていると理由をつけて放置するのとどこが違うのか?
ということである。
これは考えるまでもないことなので、細かいことは割愛する。
要は、様子見か放置かの違いではないかと思う。
そのあたりについて、考えたことについて、私の母に対する姿勢をモデルとして、以下考察する。

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プロフィール

一夢庵(M2)不便斎

Author:一夢庵(M2)不便斎
私の目の前の世界は、私が生まれてきた時に私に贈られたものである。
あなたもかつて世界を贈られたからこそ生きているのである。

私の世界は私が作り動かして行くのである。
私の世界の操縦桿を握るのは私だけ。

あなたの世界は?

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