幸福か不幸かは相対的なもの

世の中のことはなんでも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない。


特に映画に詳しいわけではないが、見るのは好きである。
好きな俳優はケビン・コスナー、デンゼル・ワシントンあたりである。
ジェシカ・タンディーやヒューム・クローニンも好きである。
ロベルト・ベニーニは、別格的に好きである。


デンゼルワシントン主演の『マイ・ボディーガード』で、メキシコの富裕層の一人娘(ダコタ・ファニング)が彼女のために雇われたボディーガード、クリーシー(デンゼル・ワシントン)に『不幸だったの?』問いかけるシーンがある。
クリーシーは『幸福か不幸かは相対的なもので、意味などない』とそっけなく答える。

確かに相対的で意味のないことかもしれない。
しかし、幸福は確かに人の心を支えるものである。
それがたとえささやかなものであってもである。

私は、我慢できなくなるほどの幸福が連続末うという状況に遭遇したわけではない。
だからそれが本当に『我慢できない』ものかどうかは想像もつかないのである。

私はとりあえず概ね幸福である。
一方で、経済的には常にカツカツで、人によってはそこは不幸と映るのであろうと思う。
私の幸福は家内や家族、動物たち、そして私の協力のもとに成り立っている。
今、私の横では犬さんが寝ていて、その向こうでは猫タンがやはり寝ている。
斜め前では家内もPCを触っていて、ニワトリがすり寄って甘えている。
幸福である。

支え合ってこその幸福であり、それはかけがえのないものである。
恐らく、この言葉で言う幸福とは理由もなく与えられた幸福のことだろうと推測する。
それならよく判るのである。
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自覚なしは問題あり

人に欺かれるのではけっしてない、自分で己れを欺くのである。


さらに言うと、自分で自分を欺いている人はたいていの場合、その自覚がないのである。

そして、私もその一人である。

自分が気付かないところで、今も自分を欺き続けているだろうということはおぼろげに分かっているつもりではあるが、それが何かはわからないのである。

さらに、自分が本心からそう思っているのだろうか?

そんなことを考えると自分が自分を欺いていると考えているそのこと自体が自分を欺いているのではなかろうか?


などと止まらなくなるのである。

理屈ではないのである。

解るようになりたいと思い続けること

『ぐれん』 の記事 『「大抵のことは分る」と思っている』 を読んでいて思い出したゲーテの言葉。


つねによい目的を見失わずに努力をつづける限り、最後には必ず救われる。


戯曲 『ファウスト』 からの引用である。


この世界では、崇高な目的をもって何か努力を続けていても、必ずしも報われるとは限らない。

そもそも 『報われる』 とはいったいどういうことなのか。昔から考えていたことである。

この記事にその答えが書かれているのである。無論、答えは一つだけではないのでこれからも探し続けることにはなるが。


人は自分の分からなさを自覚して『分かるようになりたい』と願い、行動することが成長する道であると思う。ある時点で意図してあるいは無意識にそれを放棄してしまった人には成長は無い。

その道は、難しい課題があって、それに取り組むわけではない。当たり前のこと、当然のこととして受け流してしまうようなことに真剣に向き合うことで、『当たり前』であるがために歩き続けることが来分けて難しいのである。

その先には何があって、どんなふうに報われるのか。それは自分で体験する意外に知るすべはない。

一つ言えるのは、私は『当たり前のことを理解する』と言う簡単に見えることにも『上には上がある』と言うことを知ったことである。そのおかげで、この世界は深みが増し、より味わい深いものとなった(時々、胸焼けすることもあるがそれは昔からのことである)。

そしてこの先も、この道は続くのである。

頭脳労働

多数というものより気にさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは、少数の有力な先導者のほかには、大勢に順応するならず者と、同化される弱者と、自分の欲することすらわからずに従ってくる民衆とであるからだ。


この数年、職場で感じていた違和感がある。

特に、会議やその他の仕事上の議論の場で強く感じていたが、それが何なのかつかめずにいたのである。


昨日(も?)、定例の会議で激しめの議論があった。発端は私の発言(毎度のこと)。

『そう言うことは想定して、手を打つか、対策を考えてなかったんですか?』


相手は十分考えていたと主張する。そして私はそれでは考えたことになり得るのかと問い返す。

相手は同じ主張を繰り返す。ごく一部の人は意見を言う(賛否両論)。上司は『M2さんの言うこともわかりますが、出来ることとできないことがあるので』などと当たり障りにないことを言って収拾を図る。


相手と私の『考える』ということを簡単にまとめてみると、以下のようになる。


①相手:実験Aをやってみてうまくいけば、実験Bで検証する。検証結果が良ければCについて検討し…

 →うまく言ったら次はどうするかのみを考える。


②M2:実験Aをやるにあたって、目的に合致した実験方法と装置を考える。実験Aの結果をどう評価・解析

 するのかを考えた後に実験に移る。うまくいった場合は実験Bを、うまくいかなかった場合は今の段階で

 はD、Eあたりが原因になりそうなのでその場合に打つべき手を考える。他に原因もあり得るのでその解

 析法を考える。


私が特別なのではない。私が若い頃に教え込まれたことである。

当時は私の周りには②以上のことを普通に考えながら次々に仕事をこなし、私を指導してくれるような人は何人もいた。

今は①が普通である。


私を指導してくれた人たちが言ったのは、頭脳労働はお金がかからず、時間を捻出すればいくらでもできる。そして、それは概ね価値のある結果をもたらしてくれるのだということであった。


しかしここで言いたのは最近は思考の浅い人が多いという嘆きではない。

議論の場において発言するのはいつの決まった少数でしかない。

大多数は自分の主義主張を持たず、流されるままに生き、権威のある者の考えを自分の考えとするのに疑問すら持たないということである。

多くの人は『考えること』という自分の中の宝の山を自ら放棄しているのである。あるいは放棄していなくとも自分の保身の身のために浪費しているように見えるのである。


出来ることなら、ぶん殴って目を覚ましてやりたいと思うのである。

仮にぶん殴ったら、大半は気絶する恐れがあるので、まず手加減と言うものを覚える必要があるが。

自戒

自分の知っていることは自慢し、知らないことに対しては高慢にかまえる者が少なくない。


私の職場の常態である。

そして私は、そういう人達を見下し馬鹿にするだけと言う態度をとる自由がある。

一方で、そういう人たちを反面教師とすることもできるのである。

私もまた『自由の刑に処せられているのである。

プロフィール

Author:一夢庵(M2)不便斎
私の目の前の世界は、私が生まれてきた時に私に贈られたものである。
あなたもかつて世界を贈られたからこそ生きているのである。

私の世界は私が作り動かして行くのである。
私の世界の操縦桿を握るのは私だけ。

あなたの世界は?

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