習慣

私たちの生活や行動、思考などは少なからず習慣というものに左右されるものである。
縛られているといっても過言ではないかもしれない。

アルベール・カミュの『異邦人』では、主人公が母を養老院に入れた当時は面会の後に『うちに帰りたい』と泣いていたが、そのうちに養老院になじんでいき、『おそらく今うちに連れて帰れば、養老院に帰りたいと泣くだろう。これも習慣の問題である』と述べられている。程度の差こそあれ、私たちの意識に対して習慣は強い影響を及ぼしているのである。

唐突ではあるが、私の自宅のトイレにはウォシュレットがある。子供のころの自宅トイレ(『トイレ』ではなく『便所』と表記するのがふさわしいかもしれないが)には、そんなものはなかったのである。初めてウォシュレットを使った時には違和感満載であった。
使い慣れてみると、それが当たり前になってしまったのである。

北陸某所で一人暮らし中のアパートのトイレにはウォシュレットが取り付けられてあるのだが、以前ここに半年間住んでいた時に住んでいた部屋のトイレには設置されていなかったのである。
一旦、ウォシュレットに慣れてしまうと、洗わなければものすごく非衛生的に感じてしまうのであった。そして、Big Benの後にはついつい風呂場で洗いたい衝動に襲われていたのである(食事中の皆様、並びに英国国民の皆様、済みません)。

トイレでわずかに体重を減らしたせいか、こころなしか軽やかな頭で(実際に軽いのだが)そんなことを考えていた次第である。
日々の生活の中で、『私が』自分の行動を決めているのか、『習慣が』自分の行動を決めているのか、きちんと自覚していたいものである。
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ニーチェの言葉

ニーチェ曰く

一日の終わりに反省するな

疲労がたまった一日の終わりに反省したら、疲れているためにネガティブなことしか考えないものであり、反省する暇があったら1秒でも早く休息をとるべきだというものである。

ということで、今日のいろいろについては、反省しないことにするのである。

なんか、『待て待てい!』という心の声が聞こえた気もするが気にしないのである。
何があったのかは秘密である。

研究者と芸術家と哲学者

参考記事:http://xx69zz.blog91.fc2.com/blog-entry-2947.html

研究者であり、芸術家でもある私はちょっとどころではなく完全主義者な部分もある。
時々、職場で合成実験をして不本意な結果が出たら『こんなものは私の作品じゃない!』などと言いつつフラスコをたたき割りそうになるのである。
私の中の弱小勢力である『調停者』が遠慮がちになだめて、事なきを得る。

『楽天家』はほとんど存在感がない(ネットで買い物するときは別な楽天家が顔を出すのだが)。

ifさんが言うように、芸術家的側面を持つ私は自分は特別という意識も強いのである。
だが、哲学者は『自分は特別な存在である』と同時に『すべての人はその人の世界で特別な自分である』ということを理解している。
で、とりあえず今のところは『やらかして』はいないのである。たぶん。

硬いと柔らかい

かなり昔のことであるが、微粉砕の研究を命じられたことがある。
数百ミクロンの粒子を数ミクロンの微粒子に粉砕するのであるが、そこで考えるべきことの一つに『粒子の硬さ』というものが挙げられる。当然のことであるが、硬いものは粉砕されやすく、柔らかいものは粉砕されやすい。
考えるまでもないことである。

実際にやってみると、『硬い/柔らかい』というのは単純な一次元の指標ではないということである。
職場での報告会でこのことを説明しても理解する人はほとんどいなかった。
何人かが、勝ち誇ったように『あなたの評価方法に不備があるんではないですか?』などと畳みかける。
プライドは高いが知性の低い連中である。
ブチ切れた私は、たまたまポケットに入っていた消しゴムを取り出した。

この消しゴムとそこの花瓶(ガラス製)と、どちらが硬いか?
そう問われたら、おそらくほとんどの人が花瓶と答えると思います。違いますか?
では私がこの花瓶を壁にたたきつけたらどうなると思いますか?
たぶん割れると思います。やってみましょうか?
ではこの消しゴムを同じ運動エネルギーで壁にたたきつけたら割れますか?
その上で、花瓶と消しゴム、どちらが硬いか、一概に言えますか?
そういうことです!
その『硬い』頭でも、それぐらいは理解できますよね!?


こういうことを言うので、全職場では多くの人から嫌われていたのである。

では、ここで改めて考えてみると、ガラスの花瓶と消しゴム。
どちらが硬いのか?
そこにはいくつかの尺度が潜んでいるはずである。

こうした経験を通して1次元でとらえていたものが2次元、3次元と次元を上げていくのである。

だからどうということではないのであるが、当時は『面倒で難解な仕事を押し付けられている』と感じていたのであるが、今から考えるとこういう面倒なことを通して、考えて深く追求したことを言葉に置き換えるということに対しての経験を積む機会となったのである。
よくブチ切れていたのであるが、『すべての経験は、学びの機会』ということが理解できていればもっとよく学ぶことができたのでは?
そう思うと惜しいことをしたと思うのである。

希望の星

希望の星は遠くて小さい
でも希望の星は月のように欠けたり消えたりはしない
だから希望を抱くものは
顔を上げてそれを見続ける


これは私の好きな小説『孟嘗君』からの引用である。

希望の星とはどこにあるのだろうか。

おそらく星空をくまなく探してもそんなものを見つけることはできないだろう。
でも、目に見えなくてもどこかにあると信じることはできる。

サン・テグジュペリの表現を借りるなら、無数にある星のどこかに『希望の星』があると心から信じたら、それだけで夜空は希望に満ちたものになる。

私の思うところでは、希望の星は夜空ではなく、自分の内部宇宙(オリオン・コスモス)にあるのだと思うのである。
少なくとも私はそう信じているのである。
そう信じていれば、どんな絶望的な状況に直面しようとも、私の心は希望で満たされているのである。
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一夢庵(M2)不便斎

Author:一夢庵(M2)不便斎
私の目の前の世界は、私が生まれてきた時に私に贈られたものである。
あなたもかつて世界を贈られたからこそ生きているのである。

私の世界は私が作り動かして行くのである。
私の世界の操縦桿を握るのは私だけ。

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