命がけの事

*はな*さんのブログの記事『イヤな奴?』を読んで思い出したことがある。

以前私が管理していたテスト用プラントであるが、工場と同じくその運転は、大げさではなく『命がけ』であると言えるのである。爆発や火災が起こると最後なのである。

運転方法を教えるのに、かなり怒鳴った記憶がある。
『命がけ』の仕事だからいい加減にしてほしくない。だからきつく言う。
おそらく、*はな*さんの記事の教官もそんなことを考えているのではないかと思うのである。
そして、いきなり怒鳴ると言うことについて深く考えると言うことは無かったのである(おそらくその教官もそうだろう)。

当時は私の考えはそこまでだったのである。

たとえ、自分が嫌われても怒鳴ることは仕方ないし、正しいのである。

果たして、正しいことだったのだろうか?
全くの間違いとは言わないが、どう見ても自分の行動に陶酔しているのである。

何事も意図が伝わってこそ効果があるものである。
そこで、立場を変えて考えてみるとする。
『命がけである』ことを認識せずにとってしまった自分の行動を、いきなり怒鳴られたらどう感じるだろうか?
相手が言ったことよりも、その仕事が命がけであると言うことよりも、怒鳴られたと言うことが強く心に残るのではなかろうか?

プラントの管理から離れて10年余り経つが、今になってようやくそういうことを思えるようになったのである。
遅すぎるのである。
できることなら、当時の私を怒鳴りつけてやりたい。そう思うのである。
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納豆

私が子供のころ、大阪では納豆を食べる人は少なかったのである。少なくとも私が育った地域では。
『えらい限定的やな』というツッコミはこの際、受け流すのである。

学生の頃にハンドボールの全国大会で東京に遠征したことがあり、その時の朝食に必ず出された納豆を食べてみて気に入ってしまったのである。
当然、家族は納豆に抵抗があり、食べなかったのである。
仕方ないので乏しい小遣いから、朝食のお供に納豆を購入していた。
今のように『におい控えめ』などという軟派なものは存在しなかったので、においで家族からの顰蹙を買い続けた。

私は納豆を食べるときには醤油とからしを加えて、白ネギを入れるのが好きであるが、自分で毎朝ねぎを切るのが面倒なので我慢することにしていた。ねぎは無くても我慢できるが、卵なんぞを割り入れられたら暴れたくなるのであった。

そんなある日、父親がどこかの飲み屋で出された納豆が案外おいしかったので、ようやく納豆も市民権を得る日が来たのであった。
だがしかし、父親は卵を入れる派なのである。ここに納豆の食べ方をめぐる仁義なき戦いが勃発かと思われたが、私を除く家族はすべて卵を入れる派なのであった。どうもにおいがマイルドになるからだそうだ。『多数決は民主主義の原則』などという馬鹿げたことを言う家族であったのでその後も『マイ納豆』を買い続けることになったのである。そして時々勝手に食われたのである。

私がマイ納豆地獄から解放されたのは結婚して家を出てからである。
卵なし納豆万歳、って何の話やねん。

有害な善人

小学4年の頃、イジメられっ子であった。

そして、今日の仕事中にその頃の担任のことを唐突に思い出したのである。


若い女の先生であった。かなり綺麗な人であった。

基本的にいい先生であったと思う。

まとまりのある、仲良しのいいクラスにしようと言う熱意にあふれていたようであった。

ただ、考える能力が残念なのであった。


私がイジメられるようになったきっかけは、他の生徒がいじめられつつあり、気の毒に思って止めに入ったことであった。

中心になっているのは2人のDQN。その取り巻き10人余り(イジメられてたやつも含む)。その他、傍観者。

殴る、蹴るのほかに、誰かが怪我したり、何かが壊れたりしたら口裏を合わせてすべて私の仕業にすると言うことをされていた。


毎日のように先生に怒られる。やってないという。みんなが口裏を合わせる。その繰り返し。

ガキの嘘も見抜けない担任であった。

ある日、いつもの繰り返しの後、急に泣き出した。『何故、君はそんなに嘘をつくの?』


その時に、善意が必ずしもいい結果を生むとは限らないことを知ったのであった。

そして、今振り返ってみて、思考力の低い大人は始末に悪いことも知ったのであった。


その後、いじめグループを1~3人単位で潰していき、イジメは無くなった。

担任の目から見ると、私が問題行動をしなくなったということであったのだろう。

学年末に『よく頑張たね』とニッコリ笑いかけられた。


『可愛いから赦す』

そう言うことを知ったのもこの頃だと思うのである。

言語化できないの極み

私の父方の祖母は数年前に亡くなったのだが、100歳まで生きると宣言していたが、宣言通り100歳になって少しすると亡くなった。

祖母はかなりフリーダムな人で、自分の人生をそれなりに楽しんだのだと思う。

そして祖母は、言語化が苦手なのか、加齢に伴う言語処理能力が会話の速度についていかないのか、『不便斎。悪いけど何を何しといて』と言うことがあった。かなりの高頻度である。


『何って何?』

そう問い返すと

『何は、あれやんか』

まことによく判るのである。


仕方がないので、適当に『お祖母ちゃん、麦茶を冷やしといたよ』などと言うと『ああ、ありがとう』などと言うのであった。


『何を何しといて』が通じたのか、何を頼んだのか覚えていないのか、今となっては謎である。

ガリレオの実験

ガリレオが行ったとされる有名な実験で、重さの異なる2つの金属球をピサの斜塔から落として、それらが同時に地面に落ちることから物体の落下速度が重さに寄らず一定であることを証明したというものである。確かそうだったと思う。


小学校の6年の担任は理科と体育を受け持っていて、理科を教えるときも頭が筋肉質であった。

今思うとその先生はかなり体罰の多い先生であった。授業中にしゃべっている生徒がいると前に呼び出し、左手でほっぺたを抓り上げて、右手でもう一方のほっぺたを平手打ちしたり、それでもうるさい生徒がいたら前に呼び出し、黒板に書くときに使う大型のコンパスでお尻を叩いたりしていた。さらには、連帯責任で椅子の上に正座させられて脛の部分に鉛筆を敷くという拷問まがいの体罰もあったと思う。


一方で、その先生はそこそこ人気があったのであるが、それはストックホルム症候群に近い何かがあったのではなかろうかと思わないでもない。

そんなことを言いつつも私もその先生は好きであった。


その先生が理科の授業で冒頭のガリレオの実験を取り上げて、『屋上から同じ大きさの鉄の球と紙の球を落としたらどちらが早く地面に落ちるか(無風状態で)?』と言う問題を出したのであった。私は問題の意図を読み(そう言うのを読むのは得意だが空気を読むのは苦手である)、『同時』と言う答えに1票であった。それは大多数の生徒と同じであった(空気を読む腕前とは別として)。

ただ一人、秀才で物知りのN君は確信をもって鉄の球と答えた。N君曰く『重さは同じだけど空気の抵抗が…』とのことで、さすがだと思ったのである。

この授業の冒頭で『1kgの鉄の球と1kgの紙の束、どっちが重い?』と言うつかみのネタがダダ滑りだったこともあり、微妙な空気が流れたのであった。


この後の顛末はよく覚えていないが、この微妙な空気と、N君が自分と同じく空気を読むのが苦手であるようだという変な親近感を感じたことだけが記憶に深く刻み込まれるのであった。

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Author:一夢庵(M2)不便斎
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